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確定申告と、家族っていいなっていう話

確定申告会場に来ています。

2回しかない日曜日のうちの1日、しかも昼時なので、

ディズニーランド並にならんでいるため、待っている間に書き書き。

 

行列を作っている人々をみると、会場にあつまっているのは老若男女という4文字がふさわしい雑多な人たち。

わたしは個人事業主なのですが、みんなそうってわけではないだろう。

普通の会社員の方でも、医療費控除とか住宅ローンで控除を受けるとかあるもんね。

 

PC環境が整っていれば、自宅だけで作業して出すこともできる。でもわたしは毎年ここに来ることにしています。

こういう、あらゆる市民があつまって何かをきちんとしようとしている場ってすき。

それに、最後に提出したときに、今年も1年無事に終わったなーって達成感があって、あれがすきなのだ。

 

さて思考は脈絡なくあっちこっちに飛ぶのですが。

周りをみているとめっちゃ小さい子を連れて確定申告に来ている人がけっこういるのですね。

 

これはいったいどういう流れでこうなるのだろう。

まだ独身のわたしには想像するしかないんですが、夫婦で2人とも確定申告をするとして、こどもたちを預けて行くより連れて行っちゃえということなのか。

子供の頃からこういう場を見せて多角的な視点を持たせようという教育なのか。

 

午後から家族で遊びに行くんだけど、お父さんだけ確定申告をしないといけないのでみんなでついてきているとか。

 

家族っていいなあ~。こういう時に一緒に来る人がいるって、めっちゃ家族ってかんじだ。

遊びに行くとか、冠婚葬祭なら友人恋人同僚でも一緒だけど、こういう、別に楽しい場所でもなければ、特別なひとときでもない、かといって日常ではないとき。ただ待ってるってときに、一緒にいるのは、もうそれはそれは家族じゃのう。

 

とにかく、暇そうにして駄々こねてるこどもたちがけっこう多いので、確定申告会場にはこどもたちが遊んでいられるスペースを作ってあげるといいかもしれないね。

仕事観について

もう今年も残りわずかとなりました。

最近ありがたいことに仕事が忙しかったのですが、この度久しぶりに転職することになり、今絶賛引き継ぎのために今までやっていたことのまとめなどをやっているので、今までの自分と仕事との関わりについて振り返る機会がありました。

 

振り返って考えてみると、わたしという人間は「ご縁」でしか仕事をしてきていないし、これからも多分できないんだなあ。

 

仕事とわたし:就職編

わたしの場合、ごく一般的なルートとは少し外れていて、大学生の就活時期に内定が決まった会社へは入らなかったのですね。

なぜかと言うのは当時のわたしにもう聞くことができないので「今思いかえしてみれば」という話しかできないのですが、

短絡的な思考と概念的思考がありました。

 

短絡的な思考(就職=めんどくさい)

・毎朝早起きするのは想像するだけで辛い(ダメ人間)

・長期的な旅行に出かけるというプランがあって、就職してしまうとそれをやめなければいけないから(ダメ人間)

・金髪や長い爪をやめたくない(ダメ人間)

 

■概念的な思考(就職=今すぐしなくてもいいもの)

・意外と内定って取れちゃうものなんだな。(またいつでも取れる=いま取らなくても良い※勘違い

・ウチの親は真面目に就職しろと言うタイプの親ではない。(しろと言われる友人に比べて「ゆるい」気がする=恵まれている環境を活かすべき※勘違い)

 

結果

そんな激甘な思考回路で、さほど悩むこともなく就職をやめ、1年くらいバイトをしたり海外旅行に行ったりしてぶらぶらしていました。

「今思えば」あの頃のわたしが社会人になっても、ちゃんと使い物になる社員になれていたのかは超疑問。あのときわたしに内定を出した会社さんたちの名前は書きませんが、危機回避できたと言っても過言ではないかもしれません。

(中にはその後予期せずお世話になった先もあるのですが、担当者の方はとても素晴らしい優秀な方だったので、この人に迷惑をかけずに済んで良かったな〜と思ったりしたことも。)

 

のほほんと1年を過ごしたわたしはある時気づきました。

「あれ?フリーターって、そんなに楽しくないかも。」と…!

気づくのが一般的なルートをちゃんと辿れるマトモな人より、少し遅かったようです。

 

思う存分、社会人としてあるまじき生活スタイルをし尽くした結果、「もういいや」と思ったのでした。きっとマトモな人には笑われてしまうけど、わたしにとっては「もういいや」っていうのが、大事なことでした。

 

仕事とわたし:仕事を始める編

そんなこんなで、さてわたしも仕事をしよう!と思いました。

新卒+1歳の時期ですので、とりあえずバイトを辞め、姉の家に家賃5万円で居候をしながら、就職活動を始めました。

 

就職活動の間、バイトでなくてインターンとかしてみたら?というアドバイスをもらい、とあるwebサービスを運営しているスタートアップの会社さんでインターンも始めることに。

そうしたら、途端にそれが楽しくなってしまいました。

すぐにそのまま就職活動を辞めて、そこに居座っちゃった。そこにいたのは1年ほどで、最初月給は20万とか。それでも毎日朝から遅い時間まで、楽しくフル稼働して満足していました。

あれ?終電が…となる日も多かったし、休日という概念はあまりなかったように記憶しています。

それまでの1年余りのフリーター満喫生活で、「ゆるい」生活に満足しきったわたしは、今度はフル稼働することに喜びを見出したのですね。

こうやって書いていると、改めて自分の「流れに身を任せて生きる」面がわかりすぎてつらいw

 

仕事とわたし:フリーランスになる編

そうこうしているうちに

一人暮らしも始め、会社外の知り合いも増えました。仕事でもSEOを熱心に研究したりプログラミング言語の勉強を浅く広くしたりして、わからない単語やとんちんかんなミスが減り、ディレクターとして少しずつ使えるようになっていったと思います。プロジェクトの進め方や優先順位の決め方、ワイヤーの書き方、仕様書を作ったりする作業のマナーもこのころ覚えたはず。

それだけでなく小さな会社だったので営業も経理も事務も、買い出しやイベントの準備などなんでもやっていました。

 

転機となったのは

同時に2件の転職のお話が来た数年前の冬です。その時わたしはコンテンツチームのリーダーをしていて、部下というか後輩というか、メンバーが5人ほどできた時期でした。

そんな時、社外の知人からたまたま同時に「うちに来ない?」と言ってもらったのです。

それぞれ全く別の業種の企業。一つはアパレル系のブランドで、ネット事業に力を入れたい他、まだ小さな組織なのでなんでもできる社員が欲しいとのこと。もう一つはコンサル系。新しく会社を設立する中で、自社運営メディアを運営するディレクターが欲しいとのことでした。

 

今思えば

おそらくですが、毎日フル稼働することに喜びを見出している若い女の子、給料の額なんてどうでも良さそうで、楽しそうになんでもやっている姿勢は、小さな企業からすると割と欲しい人材だったんだろうなー、と思います。

結構、まだ何がやりたいかわからないけど、ネットで何かやりたいって会社さん多いし、規模が小さいとどんな人がいるかによって事業が成長していく側面って無視できないんですよね。

起業まもないところって、なんでも快くやってくれて、かつ安く雇える人材って重宝しますよね。わかるわかる。

 

当時のわたしは悩みました

どうしよう、せっかくこんな何も実績のないわたしに声をかけてくれたのだから、両方やりたい。でも2社に入社することはできない。どうしよう…。

悩んで相談した先輩に、「フリーランスになって、両方から案件受注したら?笑」と助言をもらい、「なるほど、その手があったか★」ってことで、今に続くフリーランス生活がスタートしました。

 

その後

その時の2社の案件はもうとっくに手放しているのですが、どっちも最初は難航して泣きそうな日もあったのを覚えています。

それまで、フル稼働して頑張ればなんでもなんとかなる!という脳筋タイプの信条を持っていたわたしでしたが、単純に言って週の半分しかいられない場所でプロジェクトを進めるためには、そのままでは円滑にいかなかったのです。

仕事のやり方とか目的とすることとか、仕事の意義について改めて考えまくった時期でした。

「いざとなれば、自分で全部の作業をこなせばなんとか間に合う」計画なんてクソの役にも立たないのだと思い知り、自分でなんとかするなんて力技は普通通用しないのだと理解しました。

それから数年が経ち、今では自分の上限は一度に3案件まで。内容によっては細かい案件は切って、1件に集中する。という自分ルールが出来上がっています。

 

仕事とわたし:現在、転職する編

そして今に至るのですが、今回転職(就職?)する先は今までいたWEB制作現場とは全く異なる業界なので、久しぶりに脳筋時代のわくわくを思い出しています。

スタートは来年の1月から。(今はブログ書いてる場合じゃなくて引き継ぎに専念しなくちゃいけないんだ…!!)

 

そして冒頭に書いたように、転職のきっかけはお声がけいただいたこと。

わたしってつくづく、「ご縁」でしか仕事ができない人間なんだなあと、しみじみ考えています。

 

もっと「ご縁」を大切にしなくてはいけない。なんて書くと何かの宗教みたいだけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

友人を励ますという話からの、アラサー恋愛雑記メモ

ここ数日、せっせと友人を励ましています。

幼なじみと言ってもいいくらいの、古くからの友人です。

彼女が悩んでいる内容は、恋愛です

 

彼氏との関係が史上最悪に悪化しているんだそうです。

大学時代から現在アラサーに至るまで長くお付き合いをしてきた2人なので、このまま別れたら本人達がダメージを受けるのはもちろん、周囲への影響もかなりありそう。ていうかこのまま結婚するもんだと思ってた。

私の友人である彼女のほうは、何日も食事がまともにとれない程落ち込んでいるので、私としては、何とか励まして元気になってほしい(できれば別れという結末を回避してほしい)。

関係悪化の経緯を聞いていると、どちらかが一方的に悪いというわけではないので謝ってハイ終わり、というケンカでもなさそう。一概に原因はコレ!というのがどうもわからない。細々したたくさんのことの積み重ねというかんじですね。

当面は話を聞いて、連れ出して、元気になってもらおうと思います。友達として愛を込めてしてあげられることってそれくらいです。

周囲があーだこーだと口を出すとロクなことがないと思うので、聞き役に徹しつつ見守るんだ。

 

そんなこんなで、自分自身の恋愛感というものに考えを巡らせています。今日はそのことを書く。

 

そして、自分自身のことを考えた。

 

友人を励ましながら、そういえば恋愛のことでごはんも喉を通らなくなったり、夜も眠れなくなったり、そんなこと最近はぜんぜんないなあ…。と思いました。いい意味でも悪い意味でも。

 

上で書いたように、現在私はいわゆるアラサー年齢なのです。

はじめて彼氏というものができ恋愛に足を踏み入れたあの時から、かれこれ10年以上が経過しました。いろいろと変わった面があります。

 

▼当時と今の違い

当時①:

カレシという響きが甘美でうっとり。それはもう、口にすることも恥じらうほど。

現実/今→

◯◯ちゃんの彼は、何の仕事してるの〜?と、年下の女子に無神経に聞く。

 

当時②:付き合ってるんだから〜したい、〜したいから付き合う等、「付き合う」神話に傾倒。記念日とか大好き。

現実/今→「付き合ってください!」と言ったり言われたりした思い出は過去の思い出に。それ何だっけ…聞いたことあるよ。

 

当時③:

ひとりの人とずーっと長くお付き合いをしてお嫁さんになる!この人と別れたらもう恋なんてできないに違いないと突然絶望してみたりする。

現実/今→

一概に誰が良いとは言えない。それぞれ良いとこ悪いとこがあるから。元彼の結婚話を聞くとちょっとせつない気持ちになってみたりはする。

 

当時④:

好き好き大好き!1日中彼氏のことを考え、友達とも話題は彼氏が8割。もう、あの人のすべてが愛しくてたまらない(という思い込み)。

現実/今→

いつでも頭の中が彼でいっぱい!なんてことはなく、話題にも1割未満の登場程度。嫌いはわかりやすいがすきの定義は難しいと思っている(あるいは、あきらめ)。

 

嬉しいとか楽しいとか、むかつくとかちょっと寂しいとか、そういう気持ちはちゃんとあるんですが…。

 

もともと悩むのはそんなに得意じゃないので、楽なほうに流れるうちいつのまにかこうなってしまったのか。

紆余曲折を経ているうちに、解脱してしまったのか…。

 

恋愛に関してまったくスマートでなかった私は、これまでに数々の黒歴史を繰り広げてきました(いつか気が向いたらブログに書こう…)。

今思い出すと一人で足をバタバタしたくなるような、恥ずかしすぎる振る舞いも軒並みやりました。

特殊な経験はそんなにないですが、ベタな失敗はひととおりやったと思います。

もう、無意識で、そういう恥ずかしい思いをするのが嫌になってしまったのかもしれないと思いました。

みじめな思いをしたり、傷ついて泣いたりして大怪我をしないように、保身しているのかもしれません。

 

昔嫌だなと思っていたオトナに、今なっちゃってる。

 

自分のことを考えていたら、思いました。

私いつのまにかダサい考え方になっちゃったな、と思いました。

なんか「私なんてもうオバサンだからさ〜」と言っちゃう類のダサさ。

 

何歳になっても、泣いたり笑ったり、落ち込んだり友達に泣きついたり、そういうの避ける必要ないじゃん、と思ったんです。

 

仕方ない部分はあります。たとえば、もう高校生だった時のようには、1日中愛しい誰かのことを考える、なんてできません。

仕方ないことであると同時に、自分の世界が広がったということでもあると思う。だからそれはいいんです。

 

でも、何か、ちょっと不謹慎やけど。

今回友人を励ましていて、泣いている友人を見ていて、良いなあとも思ったんです。

恋で泣ける大人って素敵かもしれない、と。

 

年齢には逆らえませんが、感受性が鈍っていくことにはもっと対抗できるはず。

 

恋愛に限った話ではないですが、怪我することを恐れないで生きたい。と思いました。

もっと全力で人と関わろう。人に興味を持って、人に愛情を持って、失敗したら大泣きして、反省して、また起き上がる。新しいことにわくわくして、間違えたら赤面して、それでいいやん。

 

起き上がる強さは、当時より今のほうが本当はあるはずです。

さすがに10年以上生きていたら少しは成長したり強くなったりしているはずやし。

 

そんな決意をひそかにしつつ、でも具体的な行動はまだ何も起こせていないのでした。

 

 

 

 

「今・居て良いスペース」を手にいれる幸せ、という話

私は旅がすきなのです。

 

仕事があるので長期間というのは学生のときに比べて難しいですが、なんとか1〜2週間ほどの休みを年に2回ほど確保して旅に出ています。

最近はタイへ行ってきました。

でも今日はタイの話を書きません。

 

旅をしているときに強く感じられる、幸せというか安堵感というか人生感というか…とある気持ちについての話です。

もちろん素晴らしい景色とか美味しい・珍しい食事、現地の人々との交流なんかも最高ですし、たくさん時間がたってもいきいきと人に話せるのってそういうトピックなんやと思います。

だから、そういうのは後ほど書こう。
今日は、旅の最中や直後はめっちゃ考えてるんやけど、時間がたつと忘れちゃう類のことについて書こうと思います。

「今・居て良いスペース」を確保できたときの幸せがすごいんです。

 

あ〜生きているなあ、と感じられる系の幸せです。

 

まず、わかりやすい状況を書いてみる。

  • 飲食店に入ってテーブルに案内されて、腰をおろして荷物を置いた瞬間
  • 宿に入ったり友達の家にお邪魔してベッドをあてがわれ、布団にくるまった瞬間
  • 長距離バスや列車のチケットを買い、無事に間に合ったし何とか自分の席もみつけた瞬間

こういう時こういう時!!

なんていうか、「ああ、これだ」と思うんです。

 

居場所があることのありがたさ、と書くと何だかすごくフツーな感じになっちゃうんですけど。逆に言えば、居場所がないツラさ・開放感が旅の大部分にあります。
これが旅疲れの原因として大きいとも思う。

 

たとえば観光客として歓迎されたりおもてなしされたりするのは、「今・居て良いスペース」があるってこととは違います。
「ぜひ居て欲しい」っていうのは大変嬉しいことですが、居場所とは違うのです。ちょっと語弊があるかもしれませんが、営業時間内の動物園でみんなに見られるパンダと方向性は一緒。
檻はなくとも、好奇の目線で愛でられるのは同じです。つまり、その場所に居ることが周囲にとっては面白いんであり、「居て良い」とは全く違うと思うのです。

今自分がいる場所が、たとえ半径50センチだとしても、一時的にだとしても、「自分のもの」だという感覚が居場所やないかな。

もちろんその逆に嫌われているとか迷惑そうにされるとかだと居場所どころじゃないし、無視されていてもやっぱり居場所はありません。
「居てほしくない」わけですから。

私、今生きてる!ってやつが感じられる時

 

そして、この「居て良い」場所に今居られているんだという感覚は、人間として生きていくために必ず必要なものだと思います。

そして、「これは生きるために必要不可欠なことや」と実感する時に、「私、今生きてる!」ってやつが感じられるんですよね。

上にも書きましたが、「ぜひ居てほしい」と言ってもらえる場所があるのは、それはそれでありがたいことです。
でも私が「ああ、これだ」=「この場所は今、自分のものだ」と思うのとは異なっています。そう言ってくれている人がいるということは、そこはその人の場所なのです。

所有権の問題とは違います。もちろん。

日本にいると多くの人にとって何となく当たり前じゃないですか、自分の居場所って。
まず自分の家にいれば常に「居ても良い」わけです。気を張らない。


それがたとえ賃貸マンションで、本当は他の人のものだとしても、「今・居て良いスペース」だとちゃんと感じることができれば、そこは自分の居場所なんですよね。

結論:だから旅が好き。

 

私は「今この時に、私が居ても良い場所」というのは勝ち取るものなのかもしれないと考えてます。

旅先でだけでなく、自分の家も含めて、全ての「居ても良い場所」は、自分に権利があるということですし、時に義務でもありますよね。オフィスの自分の席、とか学校の自分の机、とか。


これは、自分自身が勝ち取っていくものだと思うのです。何で勝ち取るかは場所や期間や広さによるのだと思いますが、「実家」なら生まれるという偉業を成し遂げ勝ち取ったと言えるし、「賃貸マンション」は社会的信用とお金で勝ち取る。

 

旅に出ると生々しく感じるのですが、「ぜひ居て」というのは意外と得やすくて、世界はその程度には優しいです。たぶん。
でも「居ても良い」場所を勝ち取るのって本当にたいしたことです。それは物珍しさや施しを貰える幸運だけでは無理なものだからです。

 

例えば「自分の家」を勝ち取るために、どれだけの戦いをすれば良いか。
日本にいたらあまり意識しないけど、本当にたいしたことだと思うんですよ。

家など物理的に目に見えていて、方法もわかっていればまだ戦える(勝ち目もある)気がしますが、もっと概念的な居場所になったらどうでしょうか。

 

「友達の家で一晩のベッド」は、概念的な居場所、に近いです。
友情というのはまさしく物珍しさでも施しでもない「居ても良い」ですよね。
これは恋人とか他の人間関係もそうだし、大きな枠では「国籍」とかも

日本で過ごしていたら「居ても良い」のありがたみ、「居ても良い」を勝ち取った楽しさ・達成感とかって本当に忘れちゃうんです。
そもそも日本って「居ても良い」空気が具現化したような国やと思いますし。

 

が、旅に出るとそれを思い出せるし、居場所を勝ち取ったという楽しさ・達成感を毎日味わうこともできます。飲食店で席を確保するだけでも実感できるので。
私はその感覚が結構好きなんです。

もしかしたら、自分が生きてきた・生きていくことそのものが「居ても良い」になっていき、そんな場所が増えていくのが大人になるということかもしれない、と考えてみたり。

 

そんなことをつらつらと考えられる、という面が旅にはあり、そんなところがとっても良いなあと思うのです。

 

言葉のイメージについての話。「きちんと」という言葉を思考する

思考で遊ぶ!

 
「言葉」のもつイメージって面白くて、よくみると他の人や一般的な定義よりも自分にとっては色々なニュアンスを含んでいることが多いです。
 
ここから下は、かなり暇で何も読むものがなくて死にそうだという方以外読まないほうが良いですよ。
 

例えば「きちんと」という言葉。

 
一部の言葉にはすごい量のイメージが蓄積されているよねという話。
 
形容詞には特にそういうことが多いと思う。
あと、書きことばでも話しことばでもよく使うものだとけっこうありますね。これだと触れる機会が多くなり、だけど言葉の意味を調べたり認識統一したりすることのない平易なワードが多いからかな。
この状態で何年も人間活動やっているうちに、いろんな付属イメージをため込むんではないかと思います。
 
そして自分が苦手なことだったりコンプレックスを感じていたりするワードには、かなり具体的な実現指標がイメージされていたりもします。
私の場合は「きちんと」とか。まさに、です。
 
私は何かひとつのことを「きちんと」やるのが苦手でしたし、今もそう。これはかなり昔からで、物心ついたときにはすでにそうだった気がしています。
 
何かとすぐドタバタしちゃうし、焦って駆け込んだり感極まってグズグズしてたり。
かなり忘れっぽいし、割とがさつなんです。
興味を持つとエキサイトして熱量上がりがち、集中して何時間もしつこくやりがち(そして、冷めたり飽きたらもうやらないし、つまらんと思うと面倒になっちゃう)。
 
でもすごくすきな言葉なんです。

「きちんと」ってすき。

 
得意不得意と言葉の好き嫌いってあまり関係ないね。もしかしたら自分にはない要素やからすきなのかもしれないですけど。
 
私はこども時代、かなり本の虫だったんですが「きちんと〜をした。」という描写が出てくるのが好きで、読了後にセットでこどもがやりがちな「ごっこ遊び」に登場するフレーズにも多かった記憶が。
 
「ライラは用心深く皿を拭き、きちんと積みかさねておいた。」
みたいな。
すごく「きちんとっぽい」感じがたまらなくてすきでした。
ごっこ遊びについてもいろいろと書きたいのですが、それは今日の話とは逸れるのでいつか書こうと思います。
※文章は記憶のなかからひっぱりだしてきただけです、参照していません。(原作がわかった方がいたらすごい。友だちになりたい)
 
そう。「きちんと」と「きちんとっぽい」は違うものですが、ごっこ遊びには〜っぽいほうが適しているんです。
 

私の「〜をきちんとやる」という言葉に対して持っているイメージを文章化してみます。

 

あくまでイメージです。
 
まずキモとなるのは、今日の夜は何を食べようかな、とか考えたりするレベルでの余裕を持ちながら〜をこなすという行為というイメージです。
対象のコスト感も大事で、あまりお金や労力をかけておらず、無料でも楽すぎることでもないことに限定されます。
 
お金をたくさんかけたり・超絶苦労したりするのも、無料・楽ちんなことでも、どっちもイメージ上の「きちんと」から外れるんです。自動的に、1回の「きちんと」行為にかかる時間は短すぎず、長すぎない。さらっと終わるが一瞬ではないというイメージです。
 
なんかいいかんじに少しお金や労力をかけた行為ってことですね。すこし自己投資というか、自分のために行うという要素があるとさらにぴったりします。ここまでは共感も得られそう。
 

真の「きちんと」があるんですよ。

 
ごっこと本物が違うのと同じことです。
「おしゃれ」と「おしゃれっぽい」の違いみたいなもん。
 
まず上で書いた行為を1回だけやるのではなくて、「定期的に繰り返す」と、真の「きちんと」に近づきます。
ここは重要で、継続が実現していないとダメ。1回だけだとそれは私のイメージと違っていて、「きちんと風」なんです。
正確に言うとダメではなくて、それはそれでアリなんです、「きちんと風」も「きちんと」を構成し味を出すもののひとつだよ。
 
ただし継続していればよいというわけではない。何の意識もせずやるような習慣は継続していても「きちんと」の真のイメージとはかけ離れていますし、「きちんと風」ですらない。
 
…何を言っているのか全くわからないでしょうか。笑
 
続けると、
そしてその全てはすこし微笑みながら行う。もしくは少し訝しげに行うのが真の「きちんと」。
爆笑でもなくイライラしていたりもせず、酔っ払ってにやにやしていることもなく、熱狂もせず悲壮感もなく。
微笑んで行うか、少し訝しげに行うとすごく「きちんと」感がでます。
つまり、さらっとしてまるで習慣みたいなんだけど、少し感情や思考に影響を及ぼしている状態、というのが「きちんと」イメージ。
 
上記であげたこれらをすべて満たさなくては「きちんと」のイメージにぴったりはまらないんです。
あくまで、キチンと、でもなくきちっと、でもなくきちきちと、でもなく「きちんと」の場合。
 
もちろん一般的な定義とは違うでしょう。そのことはわかっていて、日常生活で変なこだわりを持っているわけではないです。
んーイメージと違うな、と思うことはわりとある。
 

念のためGoogle先生にきいてみたよ!

 
きちんと
《副・ス自》過不足なく。正確に。きちっと。「金は―払ってある」。乱れなく。整って。 「―した身なり」
 
あれ?思っていたよりも私のイメージと同じ………でもないか。
 
 
 
 
 

HIVEが10/15に終了。個人写真データの保管をやめようと決めた話

オンラインストレージサービスの「HIVE」が2015年10月15日にサービスを終了するそうです。

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— HIVE SHUTDOWN NOTICE

 

結構前に、無料で使える容量がバカでかいと知人に教えてもらい、大量の個人写真データをHIVEへ入れていたんです。

ここでいう「個人写真のデータ」というのは、作品としての写真ではなくて、記念写真とか日常的にたまっていく写真のことです。何気なく撮った食べ物の写真とかピースしてる類のやつ。誰かにあげたりSNSに上げたりもしていないやつら。けっこうたまってました。

ところが今年の夏にHIVEが突然有料化しまして。
1ヶ月3ドルだったので、とりあえず容量無制限だし…。と思ってプレミアムユーザーに変更したものの、(私が知る限り)予告なしに機能が削除されたりとかしていて、何だかなー。とは思っていたんです。

しばらくログインしていない人はまずそのタイミングで1ヶ月アクセスがないと自動的に削除されているはずです。恐ろしいですね、クラウドストレージって。やっぱり「みんな使っている」やつをおとなしく使うのが無難なんでしょう。

それで、とりあえず何年分もの大量データをどこへ移動させようか…。と考えていたんですが、そもそも個人写真データをクラウドストレージに入れておくという選択が間違っているのかも、という気がしてきました。

写真ってとっておく必要ある?

 

身も蓋もない話になっちゃうんですが、個人写真のデータってとっておく必要がないのかもしれません。

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